takaharashigeruの日記

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【あなたも私も『それ』である】

【あなたも私も『それ』である】

私たちの中心は、

究極の実在であり、

宇宙の根源と土台、

生きとし生けるものすべての源です。

これについて、

『ゆだねるということ(下)』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)

の中に、こう書いてあります。

「シンクロディスティニの第一原理は、
わたしやあなたの肉体、
ひいては星や銀河や電子の領域に及ぶ宇宙全体を創り出している根源的な知性の存在を認めることです。

この意識的な知性の場は宇宙の源であり、
全員が共有する拡大された肉体であり、
あらゆるものを結びつけている『すべて』である『場』なのです。

わたしの中心は、
あなたの中心であり、
生きとし生けるすべてのものの中心でもあるのです。

あなたもわたしも宇宙も、
同じものです。

わたしはひとりの人間に局所化された宇宙です。

そして、
今、この瞬間という時間と空間のなかでこの文章を読んでいるあなたも、
ひとつの身体として局所化された宇宙なのです。

あなたもわたしも意識的な知性の場のなかの、
さざなみとして存在しています。

あなたのもつすべての面を組織化しているのは、
この無限の『すべて』である知性なのです。

この知性はわたしやあなたや宇宙を創造した、
絶えることのない意識の海です。

人間は思考、
願望、
欲望、
夢を自分自身がつくり出したものだと思い込んでいますが、
厳密に言えばそれは間違っています。

思考や願望を表現しているのは宇宙なのです。

自分の内面にわいてくる意思や願望が実は宇宙のものであることに気づいた瞬間、
あなたは自分の力でなんとか状況をコントロールしようというあせりから解放されます。

この心境に到達すれば、
この世であなたが実現することになっている奇跡的な人生を、
想像もできないほど壮大な規模で築きあげていけるでしょう。

この前提を認めることができたなら、
シンクロディスティニの第一原理であるスートラを理解できます。

『わたしの中心は究極の現実であり、
宇宙の根源と土台、
生きとし生けるものすべての源である』

簡単なように聞こえますが、
この言葉にこめられた深い内容を探っていくには、
一生かかってしまうかもしれません。

人生にとって、
このスートラはそれほど重要な意味をもっているのです。

とはいえ、
人間の内面にはあらゆるものがすでに準備されているので、
この短いスートラを理解しさえすれば、
不可能なことはなくなります。

あなたとわたしは同じであり、
人間はそれぞれ特殊な観点(あなたやわたしの観点)を映し出していますが、
実は誰もが無限の存在なのです。

わたしの自己は、
あなたの自己であり、
生きとし生けるすべてのものには、
切っても切れないつながりがあるのです。

すべての自己が結ばれていることに気づいた瞬間、
この考えがもっているパワーが表面に現れてきます。

わたしは拡張された意識的な知性です。

意識的な知性はあらゆる現実を創り出している源なので、
その一部であるわたし自身もあらゆる現実を創り出しています。

意思はわたしたちのもっとも深い願望から生まれてきます。

これらの願望を形づくっているのがカルマです。

あなたとわたしのカルマは違っているので、
願望が異なっています。

愛する人も、
ひざまずく墓も、
祈りを捧げる祭壇も違っています。

一人ひとりが、
個人の経験、
記憶、
カルマに基づき、
その人なりのやり方で、
願望を叶えようと努力します。

しかし、
それぞれ異なっている願望の鎖をたぐっていけば、
結局、
わたしたちは全員、
同じ場所にたどり着きます。

人間は幸福を祈り、

希望を叶えたい、

人生に意味や目的を見出したいと願っています。

神やスピリットとつながりたいと思っています。

人から尊敬されたい、

愛されたいと願っています。

安心感を抱きたいと思っています。

すべての人間が、

このような願望を抱いているのです。

そこにたどり着くまでの道のりは異なっていても、

全員が同じ目的地を目指し、

いっしょに目標に到達するのです。」(29頁〜32頁)

「第二の原理のスートラは、

『わたしは、それである』

という意味です。

この原理の土台である第一の原理で、
わたしたち全員が宇宙のエネルギーの領域に包みこまれていて、
異なる視点はもっていても、
実際には同じひとつの存在であることを学びました。

『わたしは、それである』とは、
世界のなかのあらゆるものを観察して、
自分のもうひとつの姿がそのすべてのなかに映し出されていると気づくことなのです。

あなたとわたしは同じであり、
すべてのものが同じです。

わたしは『それ』であり、
あなたも『それ』であり、
すべてのものが『それ』なのです。」(40頁)

あなたも私も一人の人間に局所化された宇宙です。

あなたも私も “意識の海” のさざ波です。

私たちのすべての面を組織化しているのは、

根源的な無限の知性である “宇宙意識” です。

絶えることのない “意識の海” です。

あなたも私も宇宙です。

宇宙意識のみが宇宙の唯一の実在です。

『我はブラフマンなり』

aham brahman asmi
(アハム・ブラフマン・アスミ)

We are the universe.

We are the world.

We are the children.
(私たちは神の子です)

『外見はさまざまに見えても、
あなたも、わたしも、山も、ほかのすべてのものも同じ存在であることに、
知覚の非常に深い層で、わたしたちは気づいています。

これが愛の状態です。

それはたんにそう感じているのではなく、
あらゆる創造の中心にある究極の真理なのです』
(ディーパック・チョプラ)

(推薦図書)
『ゆだねるということ(下)』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)
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【エゴさんは考えたがり屋さん】

【エゴさんは考えたがり屋さん】

エゴさん(左脳)は、

考えたがり屋さんです。

判断・分析・評価・解釈・レッテル貼りを無上の喜びとしています。

エゴを押さえつけようとすると、

反発します。

だから、

『エゴさん、いつも働いてくれてありがとう。
働きっぱなしだと疲れるから、ちょっとだけ休んでいてくださいね』

と優しく諭す。

考えること自体を否定する必要はありません。

考えない時間を設けることが大事です。

左脳を休ませ、

右脳を活性化する。

一番いいのは、

左脳も右脳も休ませて、

頭を空っぽにすること。

すなわち、

無念無想・無欲・無心の無我の境地になることです。

思考と思考のあいだにある沈黙という『間』のなかに入る。

脳波が、

スローアルファー波の7.8Hzになれば、

宇宙意識と繋がります。

瞑想が深まれば、

7.8Hzになります。

宇宙意識と繋がれば、

直観・インスピレーション・天啓が得られます。

早寝早起きを励行し、

早朝の瞑想を日課とすることをオススメします。

(参考図書)
『神さまの周波数とシンクロする方法 人生を変える奇跡の呼吸法』
(著者 志賀一雅 ビオ・マガジン)
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【犀の角のようにただ独り歩め】

【犀の角のようにただ独り歩め】

スッタニパータは、
原始仏典の中で最古のものとされる、パーリ語で書かれた経典です。

『経集』と訳され、
長短さまざまな経典を集め、
5章に分けてあります。

もっとも直接に仏陀の教えを伝えているものとされています。

仏教の基本的な教理が比喩を用いて説かれています。

ブッダのことば――スッタニパータ』
(訳者 中村元 岩波文庫

の中から、

『犀(さい)の角(つの)』をご紹介します。

「・あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、
あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、
また子を欲するなかれ。

況んや朋友をや。

犀の角のようにただ独り歩め。

・交わりをしたならば愛情が生ずる。

愛情にしたがってこの苦しみが起る。

愛情から禍いの生ずることを観察して、
犀の角のようにただ独り歩め。

・朋友・親友に憐れみをかけ、
心がほだされると、
おのが利を失う。

親しみにはこの恐れのあることを観察して、
犀の角のようにただ独り歩め。

・子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、
たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。

筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、
犀の角のようにただ独り歩め。

・林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、
聡明な人は独立自由をめざして、
犀の角のようにただ独り歩め。

・仲間の中におれば、
休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。

他人に従属しない独立自由をめざして、
犀の角のようにただ独り歩め。

・仲間の中におれば、
遊戯と歓楽とがある。

また子らに対する情愛は甚だ大である。

愛しき者と別れることを厭(いと)いながらも、
犀の角のようにただ独り歩め。

・四方のどこにでも赴き、
害心あることなく、
何でも得たもので満足し、
諸々の苦難に堪えて、
恐れることなく、
犀の角のようにただ独り歩め。

・出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。

また家に住まう在家者でも同様である。

だから他人の子女にかかわること少く、
犀の角のようにただ独り歩め。

・葉の落ちたコ―ヴィラ―ラ樹のように、
在家者のしるしを棄て去って、
在家の束縛を断ち切って、
健(たけ)き人はただ独り歩め。

・もしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得たならば、
あらゆる危難にうち勝ち、
こころ喜び、
気をおちつかせて、
かれとともに歩め。

・しかしもしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得ないならば、
譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、
犀の角のようにただ独り歩め。

・われらは実に朋友を得る幸を讃め称える。

自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、
親しみ近づくべきである。

このような朋友を得ることができなければ、
罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、
犀の角のようにただ独り歩め。

・金の細工がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、
一つの腕にはめれば、
ぶつかり合う。

それを見て、
犀の角のようにただ独り歩め。

・このように二人でいるならば、
われに饒舌といさかいとが起るであろう。

未来にこの恐れのあることを察して、
犀の角のようにただ独り歩め。

・実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、
種々のかたちで、心を撹乱(かくらん)する。

欲望の対象にはこの患(うれ)いのあることを見て、
犀の角のようにただ独り歩め。

・これはわたくしにとって災害であり、腫物(はれもの)であり、禍(わざわい)であり、病であり、矢であり、恐怖である。

諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、
犀の角のようにただ独り歩め。

・寒さと暑さと、飢えと渇(かつ)えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、
――これらすべてのものにうち勝って、
犀の角のようにただ独り歩め。

・肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、
その群を離れて、
欲するがままに森の中を遊歩する。

そのように、
犀の角のようにただ独り歩め。

・集会を楽しむ人には、
暫時の解脱に至るべきことわりもない。

太陽の末裔(ブッダ)のことばをこころがけて、
犀の角のようにただ独り歩め。

・相争う哲学的見解を超え、
(さとりに至る)決定に達し、
道を得ている人は、
『われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない』
と知って、
犀の角のようにただ独り歩め。

・貪(むさぼ)ることなく、
詐(いつわ)ることなく、
渇望することなく、
(見せかけで)覆うことなく、
濁りと迷妄とを除き去り、
全世界において妄執のないものとなって、
犀の角のようにただ独り歩め。

・義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。

貪りに耽(ふけ)り怠っている人に、
みずから親しむな。

犀の角のようにただ独り歩め。

・学識ゆたかで真理をわきまえ、
高邁(こうまい)・明敏な友と交われ。

いろいろと為になることがらを知り、
疑惑を除き去って、
犀の角のようにただ独り歩め。

・世の中の遊戯や娯楽や快楽に、
満足を感ずることなく、
心ひかれることなく、
身の装飾を離れて、
真実を語り、
犀の角のようにただ独り歩め。

・妻子も、父母も、財宝も穀物も、
親族やそのほかあらゆる欲望までも、
すべて捨てて、
犀の角のようにただ独り歩め。

・『これは執著(しゅうじゃく)である。ここには楽しみは少く、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である』と知って、
賢者は、
犀の角のようにただ独り歩め。

・水の中の魚が網を破るように、
また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、
諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、
犀の角のようにただ独り歩め。

・葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、
在家者の諸々のしるしを除き去って、
出家して袈裟の衣をまとい、
犀の角のようにただ独り歩め。

・諸々の味を貪(むさぼ)ることなく、
えり好みすることなく、
他人を養うことなく、
戸ごとに食を乞い、
家々に心をつなぐことなく、
犀の角のようにただ独り歩め。

・こころの五つの覆(おお)いを断ち切って、
すべて付随して起る悪しき悩み(随煩悩)を除き去り、
なにものかにたよることなく、
愛念の過(あやま)ちを絶ち切って、
犀の角のようにただ独り歩め。

・以前に経験した楽しみと苦しみとを擲(なげう)ち、
また快(こころよ)さと憂いとを擲って、
清らかな平静と安らいとを得て、
犀の角のようにただ独り歩め。

・最高の目的を達成するために努力策励し、
こころが怯(ひる)むことなく、
行いに怠(おこた)ることなく、
堅固な活動をなし、
体力と智力とを具(そな)え、
犀の角のようにただ独り歩め。

・独坐と禅定を捨てることなく、
諸々のことがらについて常に理法に従って行い、
諸々の生存には患(うれ)いのあることを確かに知って、
犀の角のようにただ独り歩め。

・妄執の消滅を求めて、
怠らず、
明敏であって、
学ぶこと深く、
こころをとどめ、
理法を明らかに知り、
自制し、
努力して、
犀の角のようにただ独り歩め。

・音声に驚かない獅子のように、
網にとらわれない風のように、
水に汚されない蓮のように。
犀の角のようにただ独り歩め。

・歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、
辺地の座臥に親しめ。
犀の角のようにただ独り歩め。

・慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、
世間すべてに背くことなく、
犀の角のようにただ独り歩め。

・貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、
結び目を破り、
命を失うのを恐れることなく、
犀の角のようにただ独り歩め。

・今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、
また他人に奉仕する。

今日、
利益をめざさない友は、得がたい。

自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。

犀の角のようにただ独り歩め。」(17頁〜22頁)

ひとり超然としている

孤高の人となる

達観する

聖人となり

奇跡の人となる

世界一悟った人になる

犀の角のようにただ独り歩め

(推薦図書)
ブッダのことば――スッタニパータ』
(訳者 中村元 岩波文庫
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【真の成功とは?】

【真の成功とは?】

真の成功とは何でしょう?

これについて、

中村天風 一日一話 元気と勇気がわいてくる哲人の教え366話』
(編者 中村天風財団 PHP研究所

の中に、こう書いてあります。

「サクセス(Success)という言葉は、
直訳すると『成功』ね。

しかし、
この言葉のもとは
『サクシーディング(Succeeding)』
という言葉なんだ、
英語でね。

サクシーディングというのは
『受け継いで、続けて生み出しますよ』という意味なんだ。

継承して胚胎するという意味なんだ。

つまり、
絶えざる創造への活動がもたらす自然結果を『成功』と言うんだよ。

絶えざる創造への活動。

同じやっていることでも創造的進化が念頭におかれていれば、
その人は限りなく尽きざる幸福感を味わい得るんだ。」(161頁)

自己意識が進化すること、

どこまでも高みを目指し自己意識を創り上げること、

これが真の成功です。

すなわち、

魂の成長です。

私たちは旅の途中にいて、

旅を楽しんでいる。

そういう存在です。

旅のゴール(オメガポイント)は何か?

答えを見つけるべく、

どこまでも歩き続ける。

真理を探究し続けることに価値がある。

どこまでも高みを目指し、

自己意識の進化と創造に励みたい。

啓発・啓蒙・研鑚・陶冶を旨としましょう。

すべては魂の成長プロセス

(推薦図書)
中村天風 一日一話 元気と勇気がわいてくる哲人の教え366話』
(編者 中村天風財団 PHP研究所
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【幸せは求めるな、感じろ❗️】

【幸せは求めるな、感じろ❗️】

幸せは求めて手に入れるものではなくて、

感じるものです。

これについて、

『宇宙が応援する生き方』
(著者 小林正観 致知出版社

の中に、こう書いてあります。

「あるとき、
『あれ欲しい、これ欲しいというものを何十項目かけますか』
と言って書かせたことがあります。

そうしたら、
二十個書いた人がいる、
三十個書いた人がいる、
四十個書いた人もいました。

その人たちに向かって、
私はこう言いました。

『同じ項目数だけ、自分がすでに頂いていて、恵まれていると思うものを書いてみてください』

同じ項目数だけ書けた人は、
一人もいませんでした。

次に、
別のグループにこう言いました。

『自分がすでに頂いていて、恵まれていると思うものを書き上げてみてください』と。

そうしたら、
二十項目書けた人がいて、
三十書けた人が、
四十書けた人がいました。

『では同じ項目数だけ、これから欲しいもの、足りないもの、手に入れたいものを書いてみてください』

同じ項目数だけ書けた人は、
一人もいませんでした。

どうしてでしょう?

多分こういうことです。

世の中には、
足りないものだけを見て生活をしている人がいます。

その一方に、
自分がどれほどたくさんのものをいただいているかということだけを見て生きている人もいます。

この人たちは住んでいる世界が違います。

だから、
足りないものだけを見ている人に
『足りているものを同じ項目数だけ書いて』
と言っても書けないし、
すでに手に入ったもの、
足りているものだけを見ている人に
『足りないものを同じ項目数だけ書いて』
と言っても書けないのです。

夢や希望に満ちているというのは、
あれが足りない、
これが足りない、
あれが欲しい、
これが欲しい、
まだまだ寄こせ、
もっともっと寄こせ、
と言っているのと同じではないでしょうか。

たとえば目が見えることは、
皆さん当たり前だと思っていますけれど、
世の中には目の見えない人もたくさんいます。

その目の見えない人と話をしたことがありますけれど、
その人は
『自分の妻の顔を一秒でいいからみたい。一秒がだめなら百分の一秒でもいいから、それがだめなら一万分の一秒でもいいから見てみたい』
と言っていました。

あるいは
『自分の子供の顔を死ぬまでに一瞬でいいから見てみたい』
『自分を生んでくれた親の顔を一瞬でもいいから見てみたい』と。

でも、見ることができない。

同じように、
耳が聞こえない人は、
一回でもいいから音というものがどういうものなのかを聞きたいと思っているのです。

でもその音を聞くことはできない。

『春の小川はさらさらいくよ』という『さらさら』という川の水の音がどんな音なのか、
波の砕けるバチャーンバチャーンという音、
ジャブジャブという音も聞いてみたいけれど、
聞けないまま死んでいく人もいます。

私たちは、
一度も目が見えなくなったことがないのに、
目が見えることに一度も感謝をしたことがない。

そうではありませんか?

そして口から出る言葉は、
『あれを寄こせ、これを寄こせ』
『もっともっと』
『あれも足りないじゃないか、これも足りないじゃないか』―――。

足りないことを一所懸命書き上げて、
それを手に入れることが夢や希望になって、
その夢や希望を実現することが幸せだと教わってきたのです。

本当の幸せというのは、
手に入っていないものを挙げ連ねることではなくて、
自分がどれほど恵まれているかに気がつくことなのではないだろうか。

それが『東洋の幸せ論』。

(中略)

目が見えることも幸せ、
耳が聞こえることも幸せ、
食べられることも幸せ、
呼吸ができることも幸せ、
話せることも幸せ、
右手の親指が使えることも幸せ、
人差し指が使えることも、
中指が使えることも、
薬指が使えることも、
小指が使えることも⋯⋯というふうに数えていったら、
それだけで二百ぐらいはすぐ挙がるでしょう。

それにプラス、
Aさんと友人であることが幸せ。

これで一つ幸せが増えませんか?

Bさんと友人であることが幸せ。

これで、幸せが二つ増えましたね。

Cさんと友人である。

幸せが三つ増えました。

今度は自分の友人であるAさんとBさんが仲良しであるというだけで、
幸せが一つ増えませんか?

BさんとCさんが仲良しである。

これでまた一つ。

AさんとCさんが仲良し。

また一つ増えました。

幸せというのは、
数える技術が身について初めて目茶苦茶に増えるものなのです。

幸せは、

“見る目” というものが身につかない限り、
永久に数えられません。

幸せというのは向こうから勝手にやってくるものではありません。

すでに自分を山ほど取り囲んでいるもの。

それにどれほど気がつくか、
というだけのこと。

もう一回言います。

足りないものを挙げ連ねて、
これが来たら幸せ、
これが手に入ったら幸せ、
夢や希望が叶ったら幸せと言っている幸せ論は、
宇宙的な本当の幸せ論とは違うみたいです。

本当の幸せとは、
自分がどれほどの幸せに囲まれているかに気がつき、
その幸せを数える方法論に気がつき、
日々どれほど幸せなのかを、
これも幸せ、
あれも幸せ、
多分幸せ、
きっと幸せって数え上げてみることによって増えていくものなのです。

幸せを数える技術、
幸せに気がつく技術というのを自分で広げていくと、
実は私たちはものすごい幸せの中に住み暮らしていることに気がつきます。

そして、
その根源になっているものが感謝の心、
『ありがとう』という感覚なのです。

私の目の前に笑顔の友人がいてくれる、
当たり前ですか?

当たり前じゃないですよね。

ぶっきらぼうの人がいても、おかしくはないのです。

仏頂面の人がいても、おかしくない。

そういう場合もあるのに、
普通の人が普通の顔で、
非常に温かく、
安らぎを感じるような笑顔でいてくれるだけで、
『ああ、幸せ』
と思えるのではないですか。

本当の幸せとは、
どこかに探しに行くものではなくて、
自分の周りに幸せが満ちていることに気がつくこと。

そして、
その根源にあるのは、
何かを要求する心ではなくて、
『ありがとう』と感謝する心なんですね。

そんなに感謝することなんかないという人。

そういう人は、
感謝の心がなくてもいいから、
とりあえず『ありがとう』を何百回、
何千回、何万回と言ってみてください。

そうすると、
自分がとれほど恵まれているかということに、
本当に心の底から気がつきます。

気づいたときには猛烈な涙が出ますが、
その涙が出たあとは、
一つひとつ、
一人ひとりがものすごく愛おしくなるみたいです。

だって本当にありがたいのですから。」(154頁〜171頁)

幸せは外にあるのではなくて、

己の内界にあります。

自分がすでに幸せであると気づけば、

誰が何と言おうと幸せなんです。

『あなたが幸せを探し求めることをやめて、

幸せをすでに手にしていることを知ることが、

永続的な幸せへの鍵です。

もしあなたが幸せを探し求めるならば、

一生見つけることはないでしょう。

あなたが、

幸せはその角を曲がったらあると考えているならば、

あなたは角を曲がりつづけるだけで、

ついぞ幸せを手にすることはないでしょう。

幸せへの本当の鍵は、

ポジティブさやネガティブさを超えた知性の場で暮らし、

遊ぶことなのです。

その場はあなたの源で、

魔法のようでいて、

神聖で、

喜びに満ちていて、

自由です。』
(ディーパック・チョプラ)

(推薦図書)
『宇宙が応援する生き方』
(著者 小林正観 致知出版社
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(参考図書)
『幸せを超えるノート』
(著者 ひすいこたろう ソラトウミ舎)
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【至福のひととき】

【至福のひととき】

私にとっての至福のひとときは、

早朝の瞑想です。

何も考えず、

頭を空っぽにして、

無念無想・無欲・無心の無我の境地になれた時は、

無上のエクスタシーを感じます。

エクスタシーの原義は、

『魂が自分の身体の外に出る意』

です。

すなわち、

自我(エゴ)の囚われから自由になり、

真我(ハイヤーセルフ)が発現することです。

神と合一した忘我の神秘的境地です。

とにかく、

早朝の瞑想は超気持ちいい。

早寝早起きを励行し、

早朝の瞑想を日課とすることをオススメします。

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『ゆだねるということ(下)』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)
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【『祈り』『願い』の意味とは?】

【『祈り』『願い』の意味とは?】

『祈り』と『願い』の意味とは何でしょうか?

これについて、

『なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?』

(著者 小林正観 イースト・プレス

の中に、こう書いてあります。

「日本語の語源辞典で『ありがとう』を引いたあとに『祈り』という言葉を引き、
その次に『願い』という言葉を引きました。

その結果、
やはり衝撃的なことがわかりました。

『祈り』とは『意に乗る』(神の意に乗る)こと、
つまり神の意に沿うことで、
そういうことを神の意のままにやっていけばよいというのが『祈り』ではないか、
と自分なりに解釈していたのですが、
実は、
『祈り』とは『意(神の意)+宣(のり)(宣言の宣)』で、
神の意を寿(ことほぐ)こと、
賞賛すること、
ほめたたえることだ、
ということがわかりました。

『祈り』とは、
神さまの考えていること、
為(な)せることについて賞賛すること、
ほめたたえることだったのです。

一方、
『願い』という言葉を引いたときに、
この語源が『ねぎらい』からきていることを知りました。

『願い』とは『ねぎらい』だったのです。

『ねぎらい』とは、
誰に対するご苦労さまの言葉かというと、
神・仏・天上界の方々に対するものです。

『ねぎらい』とは『ご苦労さまでした。ありがとうございます』という意味で、
本来は上の立場から下の立場の人にかける言葉ですが、
私たちが神・仏に対してかける言葉というのは、
下から上にであって、
上から下へという方向ではありません。

ですから、
『ねぎらいの言葉=ご苦労さまでした』というのは、
当然、感謝の意を込めて『ありがとうございます』ということになるのではないでしょうか。

つまり、
『祈り』も『願い』も、
神さまの為せる業に対してほめたたえ、
賞賛し、感謝をすることであった、
ということがわかりました。

私たちは子供のころから、
寺社仏閣に行って『お祈りをしなさい』
『お願いをしなさい』をいうふうに言われてきました。

『お祈り』や『お願い』は、
かなえてもらうべき自分の希望や望みのことであったのですが、
実は、
語源からすると『祈り』も『願い』も、
すべて神・仏・天上界に対するお礼の言葉・感謝の言葉・賞賛の言葉であった、
ということがわかったのです。

神・仏に対するお礼の言葉・感謝の言葉・賞賛の言葉というのは何かというと、
これは『ありがとう』にほかなりません。

私たちは、
神・仏に対する言葉として『ありがとう』という素晴らしい文字をいただいたわけですが、
この言葉を寺社仏閣に行ってひたすら言い続けることが『祈り』であり『願い』だったのです。

『祈り』とは、
『願い』とは、
自分の夢や希望をかなえてもらいたいという意味で使う言葉ではなく、
神・仏に対して、
今私たちがしてもらっていること・置かれている状況について、
ただお礼を言い、
感謝の言葉を伝えること。

それが『祈り』であり『願い』ということでした。

ですから、
これから寺社仏閣に行ったときには、
『あれをしてください』
『これをしてください』
『これをかなえてください』
と言うのではなく、
ひたすら『ありがとうございます』と言うことで、
もうすべてがOKということになります。

そして、
その声を聞いたときに、
神さまは誰が言っているのかをきちんと認識し、
その人の『ありがとう』の回数をカチカチカチと上空で数えているようです。

その結果、
5万回とか、10万回、50万回、100万回を超えた時点で、
新しい奇跡が起きるようになっている。

最近、宇宙のしくみがそうなっているように思えるようになりました。」(234頁〜236頁)

神社・仏閣は、

自分勝手な願いをする所ではなくて、

神・仏に感謝の念を述べに行く所です。

『祈り』とは、

神の意をほめたたえること、

寿(ことほ)ぐことです。

『願い』とは、

神様・仏様にねぎらいの言葉を述べることです。

日常生活の中で、

ただ、ひたすら、感謝することを実践できたらいいですね。

(推薦図書)
『なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?』
(著者 小林正観 イースト・プレス
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