takaharashigeruの日記

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【 “道” とは何か?】

老子』にある “道” とは、

真の実在のことをいいます。

宇宙全体を創り出している根源的な知性のことです。

“道” について、

老子』(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫

に、こう書かれています。

「これが道だと規定しうるような道は、恒常不変の真の道ではなく、

これが真理の言葉だと決めつけうるような言葉は、絶対的な真理の言葉ではない。

天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉では名づけようのないエトヴァスであるが、

万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。

だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、

いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る。

この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、

根源的には一つであるが名の世界では二つに分かれ、

いずれも不可思議なるものという意味で玄とよばれる。

そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、

造化の妙用に成る一切万物は、そこを門として出てくるのである。」(7頁)


「道はからっぽで、いくら注いでも一杯になるということがない。

それは奥深くて万物の生まれ出る大本のようだ。

それは万物の鋭さを挫き、万物の紛れを解きほぐし、

万物の輝きを和らげ、万物の塵れに己を同じくする。

それは深くたたえて常存不滅の存在のようだ。

わたしにはそれが誰の子供なのか分らない。

どうやらそれは天帝に先だつ実在のようだ。」(17頁)


「目をすえて見ても何も見えないから、『夷』――色が無いという。

耳をすまして聴いても何も聞こえないから、『希』――声が無いという。

手で打ってみても何も手ごたえがないから、『微』――形が無いという。

だが、この三つの言葉では、まだその正体が規定しつくされない。

だから、この三つの言葉を混ぜあわせて一つにした存在なのだ。

その上部は明らかでなく、その下部は暗くない。

だだっぴろくて名づけようがなく、物の世界を超えたところに立ち返っている。

これを状なき状、物の次元を超えた象というのだ。

これを『惚恍』――ぼんやりとして定かならぬものというのだ。

前から見ても、その頭が見えるわけでなく、後ろから見ても、その尻が見えるわけでない。

太古からの真理を握りしめて、今も眼前の万象を主宰している。

歴史と時間の始原を知ることのできるもの、それを道の本質とよぶのだ。」(49頁〜50頁)


「大いなる徳ある人の容は、ただ道にこそ従っている。

そもそも道という実在は、ただ仄暗く定かならず、

定かならず仄暗い中にも何やら象があり、

仄暗く定かならぬ中にも何ものかが実在している。

奥深く幽かな中に霊妙な精気がこもり、

その精気はこの上なく真実で、その中に創造者としての明証がある。

それは昔から今に至るまで、変わることなく道とよばれて、

いうなれば、あまたの族長たちを統べる本家の総領。

族長たちの実状が、どうしてわたしに分かるのかといえば、

それは総領である道によって分かるのだ。」(79頁〜80頁)


「混沌として一つになったエトヴァスが、

天地開闢の以前から存在していた。

それは、ひっそりとして声なく、ぼんやりとして形もなく、

何ものにも依存せず、何ものにも変えられず、

万象にあまねく現れて息むときがない。

それは、この世界を生み出す大いなる母ともいえようが、

わたしには彼女の名前すら分からないのだ。

仮に呼び名を道としておこう。無理に名前をつければ大とでも呼ぼうか。

この大なるものは大なるが故に流れ動き、

流れ動けば遠く遥かなひろがりをもち、

遠く遥かなひろがりをもてば、また、もとの根源に立ち返る。

かくて道は大なるものとよばれるが、

大なるものといえば、天も大であり、地も大であり、帝王もまた大である。

つまり、この世界には四つの大なるものが存在するが、

帝王がその中の一つを占めているのだ。

その帝王は人類の支配者として大地の在り方に法ってゆき、

大地はさらに天の在り方に法ってゆき、

天はさらに道の在り方に法ってゆく。

そして、道の根本的な在り方は自然ということであるから、

道はただ、自然に法って自在自若である。」(94頁〜96頁)


「道の本来的な在り方は、人間のような作為がなく、

無為でありながら、しかも為さぬということがない。

もしも支配者が、この無為の道を守ってゆけるならば、

万物はおのずからその徳に化せられるであろう。

もしもその万物がその徳に化しながら、なお欲情を起こすとすれば、

わたしはそれを『無名の樸』――荒木のように名を持たぬ無為の道によって鎮めよう。

荒木のように名を持たぬ無為の道であれば、

さても万物は無欲に帰するであろう。

万物が無欲に帰して心静かであるならば、

天下はおのずからにして治まるであろう。」(141頁〜142頁)



“道” とは、

『純粋意識の場』

『純粋な可能性の場』

『統一場』

『知性の泉』

古代インド思想でいうところの

ブラフマン

今風に言えば、

『ゼロポイント・フィールド』

のことです。

換言すれば、

“道” とは、

宇宙全体を創り出している

“the Creator

“造物主”

“万物の創造主”

則ち、

“神” です。


『科学を真剣に追究する人は誰でも、人間の意志よりも優れているある意志が、はっきりと宇宙の法則を示していると確信するようになる』『私が知りたいのは神の考えだ。それ以外はすべて些細なことでしかない』(アルベルト・アインシュタイン


(推薦図書)
老子
(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫

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