takaharashigeruの日記

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【 瞑想の効果・効用 ②】

【 瞑想の効果・効用 ②】

瞑想には、様々な効果・効用がありますが、

それ以前に、気持ちがいいです。

なぜなら、

快楽ホルモンが分泌するからです。

瞑想とホルモンの関係について、

ウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状態)分野の第一人者で、

世界的スピリチュアル・マスターであるディーパック・チョプラ医学博士は、著書

『本当の幸せをつかむ7つの鍵』
(訳者 住友進 サンマーク出版

のなかで、こう述べています。 (10頁~12頁)

「 瞑想=静かに座り、自分の心のなかに入っていくと、

体に驚くほど大きな影響が表れてきます。

どうして効果があるのでしょうか?

この謎を解き明かすにはかなりの時間がかかりました。

西洋では瞑想は神秘的なもので、

宗教的儀式にすぎないと思い込まれていました。

瞑想の効果を説明するために、

研究者はこの前提に反論しなくてはならなかったのです。

現在、私たちは瞑想をすることで、

前部前頭葉皮質――より高度な思考の座――が活性化され、

ドーパミンセロトニンオキシトシン、脳のアヘン様物質をはじめとする神経伝達物質の放出が刺激されることがわかっています。

このような自然に発生する脳の化学物質のひとつひとつが、

幸福のさまざまな面と結びつけられています。

ドーパミン抗鬱剤であり、

セロトニンには自尊心を高める働きがあります。

現在、オキシトシンは快楽ホルモンと考えられて、

性的に興奮している間、分泌量が増加します。

アヘン様物質には鎮静作用があり、

ランナーズハイと関係する浮き浮きした気分を生み出してくれます。

このような神経伝達物質の分泌を増やすことで、

瞑想は幸福のための脳の設定値を変えるもっとも有効な方法であることが解明されました。」

瞑想は、非常に気持ちいいです。

瞑想を日課とすれば、

快楽ホルモンの恩恵に浴することができます。

あなたも、瞑想を始めてみませんか?

瞑想の快感を、ぜひ、味わってください。

(推薦図書)
『本当の幸せをつかむ7つの鍵』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク出版

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『ゆだねるということ(下)』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)

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【瞑想の効果・効用 ①】

瞑想には、

『血圧が下がる』

『集中力がUPする』

『不眠が解消する』

など、

様々な効果・効用があります。

これについて、

ウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状態)分野の第一人者であるディーパック・チョプラ医学博士は、著書

『富と宇宙と心の法則』
(訳者 住友進 サンマーク出版

の中で、こう述べています。

「瞑想することで、あなたは雑念を払い、

超越意識に踏み込めるようになります。

この超越意識が統一場です。

そこで純粋な知覚、純粋な意識の状態になれるのです。

どんな文化にも、瞑想の伝統があります。

わたし自身は、

定期的にマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー超越瞑想を実践し、

統一場の体験を得ています。

瞑想の効果を証明してくれる、数多くの科学的研究があります。

瞑想すると、

血圧が下がり、

ストレスが軽減され、

基礎代謝率が下がり、

不眠、不安など多くの心身医学の障害が、軽減され、取り除かれていきます。

さらに、

脳波が安定していき、

集中力、創造力、学習能力、記憶力も増えていきます。

また、瞑想の効果は、日常の活動にも及んでいき、

すぐに自分の活動のなかに統一場の特徴が現れてきます。

統一場に溶け込むことで、

統一場のもつすべての特徴が身についてくるようになります。

ヴェーダ』の文献では、

統一場はブラフマンと呼ばれています。

サンスクリットには、

ブラフマンを知れば知るほど、人はブラフマンに近づく』

“Brahmavit brahmaiv bhavate”

という言葉があります。

ですから、

日常の意識を超越する体験は、非常に役立つ手段となるのです。

統一場の特徴を実際に経験し理解するだけではなく、

日常のあらゆる活動で、

その価値を表現できるようになれるのですから。」(83頁〜84頁)



私は、瞑想を始めてから4年になります。

おかげ様で心身ともに健康を維持しています。

あなたも、瞑想を始めてみませんか?




(推薦図書)
『富と宇宙と心の法則』
原題 “CREATING AFFLUENCE“
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク出版

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『ゆだねるということ(下)』
原題 ”The Spontaneous Fulfillment of Desire“
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)

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【 “道” とは何か?】

老子』にある “道” とは、

真の実在のことをいいます。

宇宙全体を創り出している根源的な知性のことです。

“道” について、

老子』(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫

に、こう書かれています。

「これが道だと規定しうるような道は、恒常不変の真の道ではなく、

これが真理の言葉だと決めつけうるような言葉は、絶対的な真理の言葉ではない。

天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉では名づけようのないエトヴァスであるが、

万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。

だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、

いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る。

この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、

根源的には一つであるが名の世界では二つに分かれ、

いずれも不可思議なるものという意味で玄とよばれる。

そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、

造化の妙用に成る一切万物は、そこを門として出てくるのである。」(7頁)


「道はからっぽで、いくら注いでも一杯になるということがない。

それは奥深くて万物の生まれ出る大本のようだ。

それは万物の鋭さを挫き、万物の紛れを解きほぐし、

万物の輝きを和らげ、万物の塵れに己を同じくする。

それは深くたたえて常存不滅の存在のようだ。

わたしにはそれが誰の子供なのか分らない。

どうやらそれは天帝に先だつ実在のようだ。」(17頁)


「目をすえて見ても何も見えないから、『夷』――色が無いという。

耳をすまして聴いても何も聞こえないから、『希』――声が無いという。

手で打ってみても何も手ごたえがないから、『微』――形が無いという。

だが、この三つの言葉では、まだその正体が規定しつくされない。

だから、この三つの言葉を混ぜあわせて一つにした存在なのだ。

その上部は明らかでなく、その下部は暗くない。

だだっぴろくて名づけようがなく、物の世界を超えたところに立ち返っている。

これを状なき状、物の次元を超えた象というのだ。

これを『惚恍』――ぼんやりとして定かならぬものというのだ。

前から見ても、その頭が見えるわけでなく、後ろから見ても、その尻が見えるわけでない。

太古からの真理を握りしめて、今も眼前の万象を主宰している。

歴史と時間の始原を知ることのできるもの、それを道の本質とよぶのだ。」(49頁〜50頁)


「大いなる徳ある人の容は、ただ道にこそ従っている。

そもそも道という実在は、ただ仄暗く定かならず、

定かならず仄暗い中にも何やら象があり、

仄暗く定かならぬ中にも何ものかが実在している。

奥深く幽かな中に霊妙な精気がこもり、

その精気はこの上なく真実で、その中に創造者としての明証がある。

それは昔から今に至るまで、変わることなく道とよばれて、

いうなれば、あまたの族長たちを統べる本家の総領。

族長たちの実状が、どうしてわたしに分かるのかといえば、

それは総領である道によって分かるのだ。」(79頁〜80頁)


「混沌として一つになったエトヴァスが、

天地開闢の以前から存在していた。

それは、ひっそりとして声なく、ぼんやりとして形もなく、

何ものにも依存せず、何ものにも変えられず、

万象にあまねく現れて息むときがない。

それは、この世界を生み出す大いなる母ともいえようが、

わたしには彼女の名前すら分からないのだ。

仮に呼び名を道としておこう。無理に名前をつければ大とでも呼ぼうか。

この大なるものは大なるが故に流れ動き、

流れ動けば遠く遥かなひろがりをもち、

遠く遥かなひろがりをもてば、また、もとの根源に立ち返る。

かくて道は大なるものとよばれるが、

大なるものといえば、天も大であり、地も大であり、帝王もまた大である。

つまり、この世界には四つの大なるものが存在するが、

帝王がその中の一つを占めているのだ。

その帝王は人類の支配者として大地の在り方に法ってゆき、

大地はさらに天の在り方に法ってゆき、

天はさらに道の在り方に法ってゆく。

そして、道の根本的な在り方は自然ということであるから、

道はただ、自然に法って自在自若である。」(94頁〜96頁)


「道の本来的な在り方は、人間のような作為がなく、

無為でありながら、しかも為さぬということがない。

もしも支配者が、この無為の道を守ってゆけるならば、

万物はおのずからその徳に化せられるであろう。

もしもその万物がその徳に化しながら、なお欲情を起こすとすれば、

わたしはそれを『無名の樸』――荒木のように名を持たぬ無為の道によって鎮めよう。

荒木のように名を持たぬ無為の道であれば、

さても万物は無欲に帰するであろう。

万物が無欲に帰して心静かであるならば、

天下はおのずからにして治まるであろう。」(141頁〜142頁)



“道” とは、

『純粋意識の場』

『純粋な可能性の場』

『統一場』

『知性の泉』

古代インド思想でいうところの

ブラフマン

今風に言えば、

『ゼロポイント・フィールド』

のことです。

換言すれば、

“道” とは、

宇宙全体を創り出している

“the Creator

“造物主”

“万物の創造主”

則ち、

“神” です。


『科学を真剣に追究する人は誰でも、人間の意志よりも優れているある意志が、はっきりと宇宙の法則を示していると確信するようになる』『私が知りたいのは神の考えだ。それ以外はすべて些細なことでしかない』(アルベルト・アインシュタイン


(推薦図書)
老子
(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫

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【 “道” とは何か?】

老子』にある “道” とは、

真の実在のことをいいます。

宇宙全体を創り出している根源的な知性のことです。

“道” について、

老子』(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫

に、こう書かれています。

「これが道だと規定しうるような道は、恒常不変の真の道ではなく、

これが真理の言葉だと決めつけうるような言葉は、絶対的な真理の言葉ではない。

天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉では名づけようのないエトヴァスであるが、

万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。

だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、

いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る。

この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、

根源的には一つであるが名の世界では二つに分かれ、

いずれも不可思議なるものという意味で玄とよばれる。

そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、

造化の妙用に成る一切万物は、そこを門として出てくるのである。」(7頁)


「道はからっぽで、いくら注いでも一杯になるということがない。

それは奥深くて万物の生まれ出る大本のようだ。

それは万物の鋭さを挫き、万物の紛れを解きほぐし、

万物の輝きを和らげ、万物の塵れに己を同じくする。

それは深くたたえて常存不滅の存在のようだ。

わたしにはそれが誰の子供なのか分らない。

どうやらそれは天帝に先だつ実在のようだ。」(17頁)


「目をすえて見ても何も見えないから、『夷』――色が無いという。

耳をすまして聴いても何も聞こえないから、『希』――声が無いという。

手で打ってみても何も手ごたえがないから、『微』――形が無いという。

だが、この三つの言葉では、まだその正体が規定しつくされない。

だから、この三つの言葉を混ぜあわせて一つにした存在なのだ。

その上部は明らかでなく、その下部は暗くない。

だだっぴろくて名づけようがなく、物の世界を超えたところに立ち返っている。

これを状なき状、物の次元を超えた象というのだ。

これを『惚恍』――ぼんやりとして定かならぬものというのだ。

前から見ても、その頭が見えるわけでなく、後ろから見ても、その尻が見えるわけでない。

太古からの真理を握りしめて、今も眼前の万象を主宰している。

歴史と時間の始原を知ることのできるもの、それを道の本質とよぶのだ。」(49頁〜50頁)


「大いなる徳ある人の容は、ただ道にこそ従っている。

そもそも道という実在は、ただ仄暗く定かならず、

定かならず仄暗い中にも何やら象があり、

仄暗く定かならぬ中にも何ものかが実在している。

奥深く幽かな中に霊妙な精気がこもり、

その精気はこの上なく真実で、その中に創造者としての明証がある。

それは昔から今に至るまで、変わることなく道とよばれて、

いうなれば、あまたの族長たちを統べる本家の総領。

族長たちの実状が、どうしてわたしに分かるのかといえば、

それは総領である道によって分かるのだ。」(79頁〜80頁)


「混沌として一つになったエトヴァスが、

天地開闢の以前から存在していた。

それは、ひっそりとして声なく、ぼんやりとして形もなく、

何ものにも依存せず、何ものにも変えられず、

万象にあまねく現れて息むときがない。

それは、この世界を生み出す大いなる母ともいえようが、

わたしには彼女の名前すら分からないのだ。

仮に呼び名を道としておこう。無理に名前をつければ大とでも呼ぼうか。

この大なるものは大なるが故に流れ動き、

流れ動けば遠く遥かなひろがりをもち、

遠く遥かなひろがりをもてば、また、もとの根源に立ち返る。

かくて道は大なるものとよばれるが、

大なるものといえば、天も大であり、地も大であり、帝王もまた大である。

つまり、この世界には四つの大なるものが存在するが、

帝王がその中の一つを占めているのだ。

その帝王は人類の支配者として大地の在り方に法ってゆき、

大地はさらに天の在り方に法ってゆき、

天はさらに道の在り方に法ってゆく。

そして、道の根本的な在り方は自然ということであるから、

道はただ、自然に法って自在自若である。」(94頁〜96頁)


「道の本来的な在り方は、人間のような作為がなく、

無為でありながら、しかも為さぬということがない。

もしも支配者が、この無為の道を守ってゆけるならば、

万物はおのずからその徳に化せられるであろう。

もしもその万物がその徳に化しながら、なお欲情を起こすとすれば、

わたしはそれを『無名の樸』――荒木のように名を持たぬ無為の道によって鎮めよう。

荒木のように名を持たぬ無為の道であれば、

さても万物は無欲に帰するであろう。

万物が無欲に帰して心静かであるならば、

天下はおのずからにして治まるであろう。」(141頁〜142頁)



“道” とは、

『純粋意識の場』

『純粋な可能性の場』

『統一場』

『知性の泉』

古代インド思想でいうところの

ブラフマン

今風に言えば、

『ゼロポイント・フィールド』

のことです。

換言すれば、

“道” とは、

宇宙全体を創り出している

“the Creator

“造物主”

“万物の創造主”

則ち、

“神” です。


『科学を真剣に追究する人は誰でも、人間の意志よりも優れているある意志が、はっきりと宇宙の法則を示していると確信するようになる』『私が知りたいのは神の考えだ。それ以外はすべて些細なことでしかない』(アルベルト・アインシュタイン


(推薦図書)
老子
(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫

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【自重】

【自重】

憲法で、

言論の自由

が保障されているので、

個人が大衆に向けて、

自身の見解を表明するのは自由です。

しかし、

個人が他者(個人)に対して、

自身の意見を述べるのは自由ではありません。

他者の感情を害さないように “思いやる心” が大切です。

SNSやブログを見ていると、

時々、投稿者を批判・非難・誹謗するコメントを見かけますが、

自重しましょう❗

『危言危行』

『男は辞儀に余れ 男は礼に余れ』

(参考図書)
老子
(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫

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【すべてを受容する】

【すべてを受容する】

作家・講演家の小林正観さんは、

『すべてを受け容れることの重要性』

について、著書、

『悟りは3秒あればいい』
(だいわ文庫)

の中で、こう述べています。
(9頁~10頁)

「 私が言う『悟り』とは、

『受け入れること』。

何か特別な勉強をしなくても、

何年も修行をしなくても、

受け入れることさえできれば

『悟る』 

ことはできるのです。

短ければ最短 

『三秒で』 

悟ることができます。

一秒目、

過去のすべてを受け入れること。

今までの自分の身に起きたことは、

すべて自分に必要だった、

と『過去』のすべてを受け入れること。

二秒目、

現在のすべてを受け入れること。

そのすべてが自分にとってプラスだった、

自分を成長させてくれた、

それがなければ今の自分がなかった、

と『現在』のすべてを受け入れること。

三秒目、

未来のすべてを受け入れること。

今までのすべてに感謝し、

これからのすべてに感謝できる、

と『未来』のすべてを受け入れること。

『悟る』ためには、

過去・現在・未来のすべてを受け入れることです。

受け入れるためには三秒あればいい。

そして、

その結果、

『悟った状態』 

が得られるようになると、

悩みがなくなり、

心が穏やかで、

イライラしなくなり、

にこやかに、

幸せに生きることができる。

と同時に、

流れに身をゆだねる、

不平不満を言わなくなる、

その結果として、

自分の役目や役割も見えてくる、

それを自然とやらされるようにもなり、

何が起きようとも動じない自分になれるのです。」

過去に起きたこと、

今起こっていること、

未来に起こること、

すべてを受容しましょう。

すべては学びです。

すべては良きことのために起こります。

すべては、

自己意識を進化・向上させるための糧となります。

『宇宙の英知』 

に全幅の信頼を寄せましょう。

すべてはうまくいっています。

ウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状態)分野の第一人者であるディーパック・チョプラ博士は、著書

『富と成功をもたらす7つの法則』
 (訳者 渡邊愛子 大和出版)

 の中で、

『あるがままに受け容れることの重要性』

について、こう述べています。 (75頁~76頁)

「 『今日私は、人々や、状況や、環境や、出来事を、起こったとおり受け入れます』

このことは、

『この瞬間はあるべくしてある』のだ、

なぜなら宇宙全体があるべくしてあるからだ、

と知るということを意味します。

この瞬間――あなたが今経験しているこの瞬間――が、あなたが過去に経験したすべての瞬間の絶頂です。

宇宙全体があるべくしてあるために、

この瞬間はあるべくしてあるのです。

あなたがこの瞬間に対して争い、もがくとき、

あなたは実際、宇宙全体と争っているのです。

そんなことをするよりも、

あなたはこの瞬間に対して争わないことによって、

宇宙全体と争わないと決めることができるのです。

これは、あなたのこの瞬間に対する 『受容』 が全体的で完全であることを意味しています。

あなたは物事を、この瞬間あなたが望んだようにではなく、

あるがままを受け入れます。

これを理解することは重要です。

物事に対して未来は異なるよう願うことはできますが、

この瞬間は、物事をあるがままに受け入れなければならないのです。」

人々・状況・環境・出来事をあるがままに全受容することが肝要です。

この瞬間はあるべくしてあります。

この瞬間は、

宇宙コンピュータが弾き出した最善の答えです。

物事をあるがままに受容しましょう。

世の中で起こること、

人生で起こること、

すべては神のお導きです。

すべては神の思し召しです。

“All must be as God will.”

運を天に任せましょう。

成り行きに任せましょう。

我を張らない、我を通さない。

ばたばた動き回っていると、

かえって期待はずれの結果に終わります。

流れに抗わないことが肝要です。

シンクロニシティに敏感になって、

流れを読む。

『全肯定』

『全感謝』

『全受容』

『全認容』

『全許容』

『寛容の精神』

が、肝要です。

『すべてを受け容れる』

『何が起きても、それを愛す』

『すべてはあるべくしてあり、なるべくしてなる』

(推薦図書)
『悟りは3秒あればいい』
(著者 小林正観 だいわ文庫)

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『富と成功をもたらす7つの法則 願望が自然に叶う実践ガイド』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 渡邊愛子 大和出版)

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【教団は消滅する?】

【教団は消滅する?】

いずれ宗教団体(教団)は消滅するでしょう。

なぜなら、

人生哲学が確立し、

教団に頼らなくなるからです。

宗教について、

中村天風師は、著書

『運命を拓く 天風瞑想録』
講談社文庫)

の中で、こう述べています。

「宗教には、唯神論と汎神論というのがある。

唯神論というのは、

初めに神がいて、

神がこの宇宙を創ったのだということである。

汎神論は、

宇宙が出来てから、

その中に神が現われたのだということである。

いずれも、神を相手に考えようとする考え方で、

これは、

今のように、まだ科学が発達していなかったときの人間としては、無理のない考え方である。

私がいつもいっているとおり、

今から千年二千年経つと、

今あるような宗教という宗教は、

地上から姿を消してしまうでしょう。

それは、

人間の理智が、

既成宗教などに頼らなければ活きられないような、

哀れで無自覚なものではなくなるからである。

純粋哲学の立場から観察すると、

この宇宙というものは、

形ある宇宙以前に、

すでに形のない宇宙が在った、

という真理の探究というものが、

行わなければならないのだ。

神とか仏というのは、

人間が便宜上、付けた名前だから、

このようなものに捉われてはいけない。

あなたがたは、

抽象的で、あまりにも漠然としたものを、

やれ、神だ、仏だ、と思っているが、

では

『神とはどんなものか』

と聞かれたら、

なんと説明するか。

『仏とはいかなるものか』

と聞かれたら、どう説明するか。

見たことも聞いたこともないものに、

説明の与えられるはずはない。

そう思うと、何となく安心ができるといったような、

同時に、

自分が一種の信仰というようなものを、

何となく気高いと感じる、

という感じで考えられるだけではないだろうか。

だから、

私からいわせれば、

やれ神だ仏だ、といっている者は、

安直な気休めを人生に求めている哀れな人だといわざるをえないのだ。

第一、もし、あなた方が考えているような神や仏が、

この世の中に存在したら、

この世界に戦争などあろうはずがないではないか。

キリスト教の人間達が、

地球をも破壊するかもしれないような原爆や水爆を、

考え出す必要もないじゃないか。

もし本当に、

あなた方が思うような神や仏があり、

それに信仰を捧げたなら、

即座に、神や仏のような綺麗な気持ちになれそうなものではないか。

この中には、クリスチャンもいるだろう。

また仏教信者もいるだろう。

信者という名前だけで、

その人達は、相変わらず、怒ったり、悲しんだり、怖れたり、

という繰り返しの日々を送っていはしないか。

ここに集まっている多数の会員の諸君を目の前にして、

じっと見つめているときに、

後光のさすような尊い人が一人もいないことを遺憾とする。

それは、あなた方の体から出る、オーラの一切が証明している。

ともかく、

安定打坐が、少しの間、出来たときだけは、

綺麗なオーラが見えるけれども、

そうでないときには、もう、見えない、

濛濛たる毒ガスが、あなた方の体からでている、

といってもいい過ぎではないほど、

あなた方の心は汚れている。

そして、

醜い、弱々しさを持っている。

それというのも、

当てにならないものを当てにして、

救われようとか、

助かろうとか、

極めて、さもしい、気の弱い、哀れな、依頼心の強い気持ちで、

それを信仰と名づけているからである。

本当の真理から論断すれば、

何も神だの仏だのと頼らなくてもよろしい。

むかしからの歌にもある。

心だに 誠の道に かないなば

祈らずとても 神や守らん

先祖を敬い、先祖を忘れないための、

追善供養は必要である。

だが、

あなた方の神仏に対する信仰は、

いつも自己本位な自分の生命や、

自分の運命の安全ばかりをこいねがうだけが、目的になっていはしないか。

これを第二義的信仰というのであるが、

そのような信仰を持っている人間は、

何となく神があり、仏があるように思い、

その神や仏がこの宇宙を創っているように思っているが、それは違う。」(33頁〜36頁)

さらに、天風師は、著書

『心を磨く 中村天風講演録』
PHP研究所

の中で、こう述べています。

「『宗教』とはそもそもいかなるものであるべきか。

一般常識的だと言われているキリスト教に、

そういう訳のわからないことが教義の中に存在している。

別に私、今キリスト教をけなしているわけじゃないんだよ。

真面目に考えさせられる点を言っているわけで。

私はキリスト教で救われなかった。

心の問題に悩み、悩んで、もう世界の三分の二を歩いて、

キリスト教はもちろん、

仏教ももちろん、

フイフイ教までやって救われなかったんだ。

それは私の心が極めてこれはもう極度にけがれて、

汚れていたから救われなかったとおっしゃるでしょう。クリスチャンや仏教家は。

しかし盗人にも三分の理ありで、

洗い清められるものは洗ってやるけれども、

洗い清められざるものは洗わないじゃ、

ちょっと宗教の本旨と違ったところが出てこやしないかと思う。

また仏教のごときでもですよ、

『縁なき衆生は度し難し』

と釈迦をはじめとしてからに、

現代の仏教家はみんなそう言ってます。

そうでしょう。

『信ぜざれば救う能わず、縁なき衆生は度し難し』

しかし私、人を救うという建前で考えつかれた宗教である以上は、

縁なきものにも縁をつけてやって救ってこそ、

本当の慈悲じゃなかろうか、

情じゃなかろうかと私は思うが、

いかがですか。

迷っている、苦しんでいるというやつは、

全然何にもに頼る気持ちがなくなっているやつが陥った、心のもつれですもんね。

何かしらにまだ頼れる人間だったら、

迷いも悶えも、それだけ大きかないもの。

ところが、

どん底に陥ってる人間を、

あいつは救えないからって、

救わないのが宗教だとしたら、

宗教なんてものはもう、

絵に描いたぼた餅よりもまだ頼りないものだと言わなきゃならないと思うが、いかがでしょう。

(中略)

いや、私も最初は宗教にすがったんだから。

もうせっぱ詰まって、理屈も何もあるかと。

迷信と言われようが、

邪心と言われようが、

そんなことは構わない、

宗教に頼って救われなきゃと思って、

さんざん苦労した挙げ句宗教に行って、

かえって私の失望と落胆は余計倍加されただけでもって、

救われなかったんです。

もちろんそりゃ教会に行ってる人、

お寺参りをしている人、

みんなあれ救われたいから行ってるんですからね、きっと。

それともあれですか、

日曜のたんびに教会に行き、

また節会の折々、お寺にお参りしている人は、

おれが行ってひとつキリストを救ってやろうとか、

おれが行ってひとつ釈迦を得度させてやろうとかいうつもりで行ってるんですか。

そうじゃないでしょう。

死ぬまでお通いになってらしても、

なんかこう救われるだろうと思う、

いわゆる望みなきにあらざる気持ちで行ってらっしゃる。

本当に天風会に入って、

こういう教えによって自分の心を本当に納得のいくだけ救われたという人は、

私はほとんど一人もいないと思うが、

どうだろう。

いると思う人、手を挙げてください。

私、聞きたいこといくらでもあるんだから。

宗教的に、私の心の中に生じている疑義が。

私の精神科学や心理学の中から、

宗教と照り合わせてからに、

どうにも割り切れないものが宗教のほうで、

割り切れないものが割り切れたような顔をして説いてて、

しかも結果において割り切れないことを平気で言ってるのがバイブルにも経文にもありますわね。

これも別にけなす意味じゃないんですよ。

できれば教えてもらいたいから言うんだけど、

『人、もしもわが右の頬を叩かば、笑って左の頬を出せ』って。

これはいい言葉のようですけども、

これはなし難き計画なんじゃないかと思う。

ちょうど日本にある、

『なる堪忍はだれもする、ならぬ堪忍、するが堪忍』

と同じようなことで。

クリスチャン、ひとつひっぱたかせてくれませんか。

力道山のパンチほどは効かないかもしれないけど、

かなり効くパンチを私持ってますから。

そして、右ひっぱたいてあげて

『さあ、どうぞ左も』

とお出しくだされたらば、

その心持ちを伺ってみたいと思う。

まして、頼んだら出すかもしれないけど、

いきなり往来を歩いているやつを、クリスチャンかなと思って、

ぺーっとひっぱたいて、

笑ってからに、

『お手が痛みませんか、こちらもどうぞ、おついでに』

と出す人、いないでしょう。」(86頁〜90頁)

私は宗教を頭ごなしに否定するつもりは御座いませんが、

エス釈尊は、

教団をつくりたかった訳ではありません。

教えを広めたかっただけです。

愛(慈愛・博愛)の精神を伝えたかっただけです。

宗教と信仰を混同してはいけません。

宗教は団体で、

信仰は個人的なものです。

教団に所属せずとも信仰することはできます。

大切なことは、

individual・personalな信仰心を持つことです。

なぜなら、

人生は、

自己の “魂の修行” の場であり、

個人的なものだからです。

『私が知りたいのは神の意思だ。それ以外はすべて些細なことでしかない』

我は神なり愛と光なり

汝も神なり愛と光なり

我は救世主なり

汝も救世主なり

世界中の一人ひとりが救世主

世界平和と人類全体の幸福の実現に寄与しましょう。

地球ユートピアの実現を目指しましょう❗

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