takaharashigeruの日記

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【無為自然とは?】

無為自然とは?】

老子が提唱する “無為自然” とは何でしょう?

無為自然” について、

現代社会+政治・経済用語集』に、こう書いてあります。

「『無為』はこざかしい知恵をすて人為的努力をやめて、

無作為、無心になるの意味。

『自然』は自ずからそうなるの意で、

道と一体となるとき大いなる摂理が働き、

究極的な成功や安心が実現すること。

無為自然の模範は大自然の営みである。

四季の推移や日月星々の運行など、

そこにはなんらの行為のあとはないが、

万物はその恩恵によって生成化育し、

見事な秩序が実現されている。

まさに自ずからそうなっている。

このような無為自然を政治の原理とし、

さらに人間の生き方の原理としたのが老荘である。」

無為自然” について、倫理用語集には、こう書いてあります。

老子が大いなる道と、その道に即した人間の理想的なありようとを形容したことば。

『無為』とは人為・作為をすてること、

『自然』は自(おのずか)らそのようにある(然(しか)する)の意で、

さかしらな人為的努力を行なわず、

天地全体の悠々とした運行の中で、

そのもののありのままにまかせることである。

万物の根源である道は、

もとよりこの無為自然なあり方をしている。

さらに、

この道によって生み育てられる森羅万象(しんらばんしょう)もまた、そうである。

四季の推移や日月星々の運行など、

そこには何らの行為のあとはないが、

万物は道の恩恵によって生成化育し、

見事な秩序が実現されている。

まさに自からそのようになっている。

老子は、このような道および万物のありようである無為自然を、

人間の理想的な生き方の原理、

さらには政治の原理とした。

個人の生き方としては、

名利にとらわれず、

無欲・無心に、柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)の処世術を用いて、

与えられた生を全うするありようが無為自然にかなっているとされ、

また統治のあり方としては、

儒家のように礼楽によって民に干渉するのではなく、

君主が徳によって、

無干渉のままに民を治める為政のあり方が道にかなっているとされた。

のちの荘子は、

この無為自然をいっそう宗教的にとらえ、

人為的な価値判断を去って、

万物斉同(ばんぶつせいどう)の真理にめざめ、

何ものにもしばられない自由な生き方として説き出している。」

無為自然” について、

老荘思想道教研究の第一人者で、

京都大学名誉教授の福永光司氏(1918-2001)は、

老子』(ちくま学芸文庫

の[訳者解説]中で、こう述べています。

「『人類を悩ますあらゆる災禍は、人間が必要なことを為すのを怠るところから生ずるのではない。かえってさまざまな不必要なことを為すところから生ずる』

(中略)

人類の文明の歪みと危険性を警告し、

人間の不必要ないとなみの徹底的な切り棄てを教えて、

無為の安らかな社会に人類の至福を説いたのも、

老子がその最初の哲人である。

老子において、

『形なき形、声なき声』とは、

彼の哲学の根本をなす “道” を説明する言葉であった。

そして彼のいわゆる “道” とは、

形あり声のある一切のものが、

そこから生じてき、

そこにまた帰ってゆくこの世界の根源の根源にある究極的な実在であった。

人間を含む一切万物は生滅変化をくり返す有限の存在であるが、

“道” は万物の生滅と変化を超えて悠久であり無限である。

有限の存在である人間が、

悠久無限な実在であるこの “道” に根源的な目ざめをもち、

その形なき形をじっと見すえ、

その声なき声にじっと耳をすますとき、

己れが本来どのような存在であり、

何を為してゆけばいいのか、

人間が本当の意味で生きるということは、

いったいどのようなことであるのかが明らかになると教えるのが、

老子の哲学の根本である。」(310頁〜311頁)

老子はまず彼らの文明が賢知を尊重し、

欲望の奢侈を煽ることを批判する。

彼らはもっぱら人間を知的能力において価値づけ、

その能力においてすぐれている者を賢とし、

劣っている者を不肖とする。

賢であるために博く古人の書を読み、

多く知識を蓄えて善く物を識った人間となる。

彼らの知的好奇心は新しい知的好奇心をうみ、

新しい好奇心はさらに新しい好奇心をうんで、

彼らの目は外にあるものを果てしなく追い求め、

彼らの心は対象世界に向かって無限に拡散する。

いわゆる『目のためにする』生き方であり、

彼らの霊妙な精神は、

そのために浅く濁されてしまう。

人間の生まれながらにしてもつ真の英知――自然の光――はそのために暗く掩われ、

彼らが広きを求めて動き廻れば廻るほど、

彼らは根源的な真理に対していよいよ盲目となる。

老子はそれを

『博き者は知らず』(第八十一章)

と批判し、

『其の出づること弥いよ遠くして、其の知ること弥いよ少なき』もの(第四十七章)と否定する。

彼は外に求めて知ることを生命の内的充実を害なう危険な暴走とみ、

外に求めた知によって人間を価値づけてゆく文明や文化の在り方に否定的な警告を発するのである。

人間の賢知はまた名の世界を虚構し、

差別と対立の世界を作り出してゆくことにおいても危険性をもつ。

道すなわち真実在の世界においては万物は根源的に一つであり平等であるのに、

知は人間を他の動物と区別し、

動物を植物と区別し、

さらにはまた同じ人間を美と醜に分かち、

善人と不善人に分かち、

君子と小人に分かち、

文明と野蛮に分かち、

その一方を是として他方を非とする。」(320頁〜321頁)

二極構造(二項対立)を超越し、

全肯定・全受容・全感謝の “道” を歩みましょう。

対象依存型から自己完結型にシフトしましょう。

対象に惑わされるのではなくて、

“内なる自己” に目覚めることが肝心です。

『理性的に判断すること』よりも、もっと大切なことは、

『自然にゆだねること』です。

賢(さか)しらがって、

我(が)を通すのはいただけません。

我を張らず、

運を天に任せましょう。

成り行きに任せましょう。

『運は天にあり』

“All must be as God will.”

(推薦図書)
老子
(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫

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