【六波羅蜜とは?】
『六波羅蜜』とは何でしょうか?
岩波 仏教辞典に、こう書いてあります。
「大乗仏教において菩薩に課せられた6種の実践徳目で、〈六度〉ともいわれる。
1)布施(檀):財施、法施(真理を教えること)、無畏施(恐怖を除き、安心を与えること)の3種。
2)持戒:戒律を守ること。
3)忍辱:苦難に堪え忍ぶこと。
4)精進:たゆまず仏道を実践すること。
5)禅定:瞑想により精神を統一させること。
六波羅蜜の中ではこの智慧波羅蜜が肝要とされ、
前の五波羅蜜はこれを得るための準備手段として要請される。
波羅蜜とはこれら6種の徳目の完成態をいう。」
『六波羅蜜のはなし』(原作 ひろさちや 漫画 森村たつお 鈴木出版)
には、こう書いてあります。
「お経にはな
おまえが
知りたがっている
さとりの世界に
いたる教えが
説かれているんじゃ
(中略)
仏教では
大きな河を
想定してな
河のこちら側の
世界を “此岸” と呼び
向こう側の世界を
“彼岸” と呼んで
いるんじゃ
此岸とはな
わしたちが住む
この世のことじゃ
煩悩や迷いに
満ちた
世界のことじゃ
彼岸とは
煩悩や迷いを
断じつくした
さとりの世界の
ことじゃ
この此岸から
彼岸へ
わたることを
到彼岸という
到彼岸する
ことによって
わしたちは
ほとけになれると
説かれているのじゃ
(中略)
この世に生きる
人間たちは
おのれの欲に
目がくらみ
たいせつなものを
見失っている
(中略)
その欲を捨てて
さとりにいたった
世界が
向こう岸・・・・
つまり
彼岸の世界
なんじゃ
その欲を捨てて
向こう岸に
いたるのじゃ
彼岸の世界に
いたるのじゃ
(中略)
まずは
“少欲知足” を
身につける
ことじゃな
(中略)
欲を少なくして
わずかなもので
満足する心を
もつという
ことじゃ
(中略)
少欲知足と
ことばで言うは
たやすいが
だれにでも
簡単にできる
ことではない
しかし
欲におぼれて
いるうちは
決してさとりは
開けん
どこかで
限度を設けて
“もうこれでじゅうぶんです” と
思う心がけが
大事なんじゃ
(中略)
これからが
本題じゃ
仏教には
六波羅蜜という
教えがある
(中略)
布施行
持戒行
忍辱行
精進行
禅定行
智恵行
といってな
わしたちが
積まねばなるぬ
六つの修行の
ことじゃ
真の布施とは
相手のために
するのでは
なく
自分のために
するのじゃ
(中略)
させて
いただくの
じゃよ
その気持が
あって
はじめて
ほんとうの
布施ができる
お釈迦さまは
その前世において
自分のいちばん
たいせつなものを
捨ててまで
布施の修行を
されたと言われる
われわれには
とても
そこまでは
できん
しかし
できないから
それでいい・・・・と
いうわけではない
われわれは
そこまで
できないことを
自覚して
布施を常に
心がけていくことが
大事なのじゃ
ほんとうの布施を
するためには
まず
こだわりを
なくすことじゃ
おれがおまえに
施してやるんだから
おまえはおれに
感謝しろ
そんな気持ちでは
いつまでたっても
ほんとうの布施は
できぬ
布施とは
捨てることじゃ
自分のもっている
ものを捨てさせて
いただくことじゃ
自分が捨てたものを
後はどうしようが
他人におまかせする
そういう気持ちで
するのが布施じゃ
そして布施するときには
心をスッカラカンに
することじゃ
布施を受けて
いただいて
ありがとうという
気持ちをもてば
いいのじゃよ
(中略)
布施行は
ただ人にものを
あたえればよいと
いうものではない
真の布施と
なるためには
次の三つを
忘れてはならん
布施をする側に
施してやるという
おごりがあってはならぬ
同じように
布施された側も
相手に恩義を感じて
いるようではいかん
そして
布施する品は
ぬすんだもので
あってはならぬ
この三つが
そろわねば
ならんのじゃ
(中略)
相手に恵んで
やるんだ
という思い上がった
気持ちや
感謝のことばを
相手に求めたり
する気持ちが
少しでもあると
それは布施には
ならない
布施とは
本来させて
いただくもの
布施をさせて
いただいたら
感謝の気持ちを
もつべきなんじゃ
こういう
気持ちがないと
ほんとうの布施は
できない
(中略)
せちがらいこの世の中
わしらは笑顔という
ものを忘れておる
自分じゃ
気がつかんが
イライラしたり
クヨクヨしたり・・・・
そんな心が顔に出て
ことばに表れる
(中略)
いいかい
和顔とは
柔和な顔
のこと
つまり
笑顔じゃ
そして
愛語とは
やさしいことば
思いやりのことば
のことじゃ
笑顔の布施と
ことばの布施
これが
和顔愛語じゃ
これなら
だれにでもできる
(中略)
例えばじゃ
寝たきりの
病人であっても
看護して
くれる人に
笑顔を布施して
ありがとうの
ことばを
布施することは
できる
赤ん坊は
いつもにこにこと
笑っているが
あれはほとけさまが
赤ん坊には
布施する財産が
ないからと
あたえられた
笑顔という
布施なのじゃ
われわれは
おとなになると
笑顔をなくして
仏頂面をする
(中略)
こんな世の中でも
やさしいことばの
一つでもかけ合えば
ずいぶんちがってくる
とは思わんか
(中略)
夫婦の間でも
そうじゃよ
おたがいに
やさしさと
いたわりをもって
接すれば
そうけんかも
起こらんじゃろう
(中略)
そうじゃ みんなが
和顔愛語で
くらしていけば
この世の中も
もう少し
住みやすくなるし
さとりの
世界にも
少し近づくの
じゃよ
(中略)
戒を保ち
守ることじゃ
中でも
五戒という
五つの戒めは
大事な修行なんじゃ
一 不殺生戒
生き物を殺すなかれ
二 不倫盗戒
ものをぬすむなかれ
三 不邪淫戒
夫や妻以外の異性と
性的な交わりを
もつなかれ
四 不妄語戒
うそをつくなかれ
五 不飲酒戒
酒を飲むなかれ
・・・とあるがな
在家の者には
この五戒が
基本となる
(中略)
わしたち凡夫が
人間という存在の
弱さを自覚するために
戒がもうけられたのじゃ
わしたち人間は
どんなに努力をしても
戒を完全に守る
ことはできんのだ
(中略)
人間は戒を守り通す
ことはできない
ということを
お釈迦さまは知っておられたのじゃ
(中略)
この教えを
“捨戒便法” と
言うのじゃ
(中略)
仏教の
戒とは
戒を守れない
人間の弱さを
自覚するために
あるのじゃ
それを知った
うえで
自分の弱さを省み
深く懺悔する
そのために
戒はもうけ
られたのじゃ
人間は弱い
存在だから
戒を破ったからと
いって
決して負けたわけでは
ないんじゃよ
これが持戒の
ほんとうの
意味じゃよ
(中略)
六波羅蜜の
三番目は忍辱じゃ
忍辱とは
文字どおり
他人から
めいわくや侮辱を
受けたとき
じっと耐えしのぶ
ことを言うのじゃ
いつも心を
平安に保ち
絶対にいかりの
気持ちを
起こさない
もっと
積極的に
言うと
他人を許す
心じゃ
それが
忍辱じゃよ
(中略)
人間は
この世に生きて
いる限り
どうしても
他人にめいわくを
かけてしまう
のじゃよ
そしてな
そのめいわくを
許してもらって
生きている
のじゃよ
だとすれば
わしたち自身も
他人から受ける
めいわくや侮辱に
耐えしのばねばならぬ
それが
忍辱じゃ
(中略)
わしたちは
他人にめいわくを
かけなければ
生きられない
存在なのじゃ
はっきりと
そのことを
自覚できたとき
他人から
めいわくを
受けても
じっと耐えしのび
それを許す心を
もつことができる
ようになる
(中略)
じゃから
わしたちは
忍辱を実践し
他人を
いつくしむ心を
もたなくては
ならないのじゃよ
(中略)
六波羅蜜の
第四番目は
精進じゃ
精進とは
努力するという
意味だが
ただ努力をすれば
いいという
わけではない
正しい努力で
なければ
精進ではない
(中略)
正しい努力とは
智恵のある
努力を言うのじゃ
これに対し
まちがった努力とは
ただがむしゃらに
努力することじゃ
(中略)
金もうけのために
必死で努力する
いわば
馬車馬が
目の前に
にんじんを
ぶら下げられて
やみくもに
走っているような
努力・・・・
こんな努力は
精進とは言えん
二十九歳で故郷の
カピラ城を出て
修行僧となった
お釈迦さまは
三十五歳で
さとりを開かれる
までの六年間
毎日厳しい苦行をされた
しかも
その中心は
極端な断食行で
あった
お釈迦さまとともに
苦行をやっていた
五人の仲間たちは
口をそろえて
この男は
断食によって
死んでしまった
――と言ったほど
それはすごい
苦行であった
その苦行のさなか
お釈迦さまは
農夫のうたを
耳にした
琵琶の絃
きりり
しめれば
ぷつり切れ
さりとて
ゆるめりゃ
べろん
べろん
(中略)
修行中の
研ぎすまされた
精神の極みにあった
お釈迦さまは
このうたから一つの
真理を得られた
(中略)
釈迦族の
王子として
栄耀栄華を
極めることも
極端であれば
死とすれすれの
苦行もまた
極端である
このような
両極端に
固執していては
さとりは
開けない
両極端に
かたよらない道――
われは
中道をいく
そう決意された
のじゃよ
お釈迦さまは
この中道によって
さとりに到達
されたのじゃ
したがって
精進とは
この中道に
基づいたもので
なければ
ならんのじゃ
あまりにも
極端な努力は
この中道の精神に
反するから
精進とは認めない
(中略)
精進とは
欲望を
コントロールして
足るを知る心を
もったうえで
努力すること
なんじゃ
足るを知る
心を失うと
わしたちは
餓鬼になって
しまうぞ
餓鬼とは
何ごとにも
満足できずに
むさぼりの心を
もった存在なのじゃ
ゆったりと
かたよらずに
のんびりと
努力すること
それが
精進波羅蜜じゃ
(中略)
禅定とは
いわゆる
座禅のことじゃ
これはな
精神集中の
修行でもあるが
また
精神解放の
修行でもある
(中略)
禅の修行というと
なにか特別な教えが
あるにちがいないと
思いがちじゃが
それは
まちがった解釈で
日常の生活の中
にこそ禅がある
(中略)
乱れた心を統一し
安定するのには
特別な教えなど
なにもない
特別な方法が
あると思うと
それに
こだわってしまい
正しい禅定が
できなくなってしまう
(中略)
飯を食べ
茶を飲む
掃除をし
しごとをする
日常生活の
あたりまえのことを
あたりまえに
できるようになる
これが禅定なんじゃ
“日日是好日”
という
ことばがある
これはの
晴れの日には晴れを愛し
雨の日には雨を愛す
災難に遭う時には
災難を受け止め
つらい時には
そのつらさと向き合う
という意味なのじゃ
こういう心があれば
すべて好日なのじゃ
つまり
事実をありのままに
受け止めて
とらわれないという
姿勢がたいせつなのじゃ
つまり
“こだわるな”
“迷うな” と
教えているの
じゃな
また お釈迦さまの
説かれた“禅” は
“瞑想” と思ったほうが
よいじゃろうな
瞑想というのは
極端に言えば
心をぼうっと
させることで
あるからのう
取り立ててなにか
技術がいるわけ
でもない
(中略)
あまり
禅の技術を
とやかく説いては
真の禅定には
ならんからな
一日一回は
心をぼうっと
させる時間を
もつことじゃ
(中略)
さて いよいよ
六波羅蜜の最後は
智恵行じゃ
今まで話してきた
布施 持戒 忍辱
精進 禅定を
実践することで
はじめて智恵を
完成することができる
そして
その智恵に
支えられて
布施 持戒 忍辱
精進 禅定を
完成することができる
まあ
言ってみれば
これらは
車の両輪のような
ものじゃ
両輪の均衡が
とれてはじめて
車は前に
進んでいける
智恵が高まり
般若といわれる
もっと高い次元の
智恵となる
(中略)
人間はみな
智恵を
もっている
けれども
悲しいかな
その智恵は
ねむっておる
のじゃよ
(中略)
仏教とは
智恵の教え
なのじゃ
(中略)
役に立つとか
立たないとか
そういったものを
超越したものなんじゃ
もっと
あっけらかん
として
おおらかで
自由な智恵
なんじゃ
ものごとを
ありのままに
見つめることの
できる智恵
なんじゃよ
(中略)
頭を空っぽに
すれば
智恵が入る
ようになる
わしたちは
あれこれ先入観を
もっておる
その先入観に
しばられて
思い悩む
つまり先入観に
じゃまされている
わけじゃ
じゃから
苦しみや悩みを
克服するための
いい智恵が
浮かんでこないのじゃ
事が終わって
しまった後に
なって
あんがい
いい智恵が
浮かんでくる
それは
先入観がなくなる
からじゃろう
それが
わしらが
よくやる
後知恵という
ものじゃな
(中略)
わしたちは
いろいろな先入観に
じゃまされて
迷うから
いい智恵が
出てこないのじゃ
(中略)
智恵とは
“空” の教えなんじゃ
(中略)
空とはな
差別するな
こだわるなと
いうことじゃ
(中略)
世の中には
きれいだ
きたないだ
なんてものはない
善もなければ
悪もない
そう思う心が
差別なんじゃ
そんな差別の心を
捨てて無心になって
虫を見る
それが
空の教えなんじゃ
(中略)
空である存在を
わしたちの心が
さまざまに差別
しているのじゃ
『般若心経』
にはな
差別をするな
たとえ差別をしても
その差別に
こだわるなと
教えているんじゃ
(中略)
あまり
空だ 空だと
言っていると
こだわるなと
言っとるわしが
空にこだわることに
なるしな
ただ
これだけは
言っておくぞ
空の実践とは
中道を歩むと
いうことじゃ
こだわりを捨て
執着を離れ
あるがままに物事を
見る空の立場に
立つことなのじゃ
空の立場に立って
はじめて中道を
歩めるのじゃよ
空が
中道であり
中道が
空なのじゃ
わしが話してきた
六波羅蜜を
心がけて
ゆっくりと
修行にはげめば
きっと
彼岸に
行けるぞ」
六波羅蜜を学び、
真理を究め、
修行を実践して、
悟りを開きましょう❗️
(推薦図書)
『六波羅蜜のはなし』
(原作 ひろさちや 漫画 森村たつお 鈴木出版)
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